人が感じるべき本当の恥とは
いい大人になった人なら誰しも、何かしら経験した「恥ずかしさ」を胸の奥に抱えながら生きていることでしょう。
駅のホームで転び、周囲の視線を浴びたとき。
発表会で言葉につまり、失笑する聴衆を前に冷や汗が流れた時。
こうした種類の恥は一時的な居心地の悪さを伴うが、時間さえ経てば思い出話へと変わる。
だが、本来、感じなければいけない「恥」というものは、全く別の階層に存在している。
大勢の人は、自分が皆と違って見える状況を恐れがちである。
- 服装が周囲の空気に合っていない
- 会話のテンポが合わない
- 笑うポイントが他の人と違う
このようなズレを「恥」と名付けてしまい、必死に“皆と同じ平均”に近づこうと努力する。
この行為自体は社会活動を円滑にするために一定の必要条件でもあるが、過剰になりすぎると自分の思考や生き方まで他者の顔色を伺う人生になる。
一方、
物事を深く考える人は、見た目の浮き沈みよりも、自分の心がほんの些細な事に過剰に反応している状態を内省している。
- 会話中の言葉尻に惑わされ、1日中あのときの会話の一部分に囚われて意味を反芻してしまう
- 他者からの評価や忖度を守るため、自分の発言や行動を縮こませてしまっている
その瞬間「ああ、自分は今、狭い器の中に閉じ込められている」と自覚できて、羞恥の火が心の内面で静かに灯る。
この羞恥の火が成長を促す道じるべになっている。
あなたはどちらの恥を持っているのか?

外見の派手さより中身
外見の派手さ地味さを気にして生きる人も大勢いる。
しかし、本当に自らを省みる人は、外見の装いが整っていても内面が空洞化していないかを問う。
服が整い、髪がきちんと揃い、立ち居振る舞いができていても、中身が空っぽの大人では、砂で作られた城と同じこと。
学びを怠り、感性を磨かずに、思考を浅くしたまま身体だけ大人になってしまった砂の城。
思考や感情の地盤が脆ければ、外殻は風に吹かれれば簡単に崩れてしまう。
見た目の華やかさに安堵するのか、中身の充実を深めるのか
この分岐点に気付けたとき、本当の“恥”はどっちだったか判断できる。

評価と後悔
順位や数字に振り回される人も大勢いる。
同僚よりも低い成績。フォロワー数の差。購入した家の価格や広さの差。
これらを恥と感じ、焦りや劣等感に苛まれる。
しかし、学びを続けている人は、“外的評価”よりも“能力を発揮しきれていない自分”に恥を覚える。
外的評価は相手のご都合と気分で変わる。
ある瞬間は追い風、次の瞬間は逆風になっていることなんてざらにある。
自らの内側に眠っている才覚を守り育てきれずに終わることは、季節を待たずに枯れていく綺麗な花と同じこと。
そこにこそ、本当の後悔が残ってしまう。
天に与えられた自分の才能に水を与え続けることを忘れない。
他人の評価を気にしすぎていては、自分の人生は花開かない。

恥を知る生き方
本当の恥を知らない人に出会うと、距離を起きたくなる時がある。
その人は、上辺を繕いながら内面を顧みず、周囲の思惑に合わせて形だけ変える。
状況や場面に応じて器用に立ち回る姿は、社会的には評価されるかもしれない。
だが、心の奥を見つめて内省する時間はなく、自分を正す羞恥心の灯火もない。
自分を修正できない人とは、長く付き合うほどあなたの心が疲弊していく。
こうした人との関係には、成果を促す切磋琢磨や、お互いを映す鏡の法則のやり取りが存在しない。
“恥”とは外界が与える一瞬の事ではなく、自らの理想と現実の差が生み出す、内界の痛みであるべき。
この痛みを大切に味わえる人が、静かに成長を続けることができる。
他者と違う事を恐れるより、他者と同じでいようとすることで、失われる自分を恥じて怖れたい。
華やかさを競うより、根を深く張る力を育てる。
他者からの採点に一喜一憂するより、自分の基準を守り抜きたい。

まとめ
あなたが本当に向き合うべき恥は、外見や他人の評価に左右されて、囚われるような浅いことではなく
能力を出し切れていない自分や、理想から離れた現実の自分を直視する時に、本当の恥に気付ける。
この感覚を持っていない人は、安易な安心、安全という詐欺の謳い文句にホイホイと付いていく事になり、搾取される側の人生を生き続けなければならなくなる。
持てる力を使い切れないまま人生を過ごすことや、自ら掲げた基準を裏切るとこを恥と思うべき。
表面的な恥はやがて笑い話になるが、心の奥底を指す“正確な恥”は人生を研ぐ砥石になる。
恥は避けるものではなく、恥と一緒に歩いて進むことができれば強さに強さに変わっていく。

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