善悪は人のこしらえモノ

生き方・価値観

自分の学生時代から社会人になり社会活動の規模が広がるにつれて、自分が学んできた「善悪の基準」が変化していった。

善悪を超える自然の摂理

人は生きていくうえで「善か悪か」という基準を必ず意識している。

親にしかられるときも、学校で教わる道徳も、会社で教わる規則も、善悪の軸に沿って作られている。

社会を成り立たせるために必要な仕組みであり、従事している者なら従わざるを得ない。

客観的に考えると、この基準も人間が勝手に決めた一時的なルールに過ぎない。

法律も道徳も、時代が変われば簡単に塗り替えられる。

昔は許されていたことが現代では犯罪になり、かつて禁じられていた行為が今では当たり前の権利として保証されている。

人が作った枠組みは絶対ではないということが判断できる。

善悪の基準は揺らぐ

「正しい」と言われることが、各家庭、企業、大きく見れば、国や文化によって異なるのは、社会生活規模が広がるほど日常的に目にする事実。

宗教が異なれば、食べていけないものが違い、政治体制が違えば自由の概念すら変わる。

生まれた場所によって異なる曖昧な「善悪の基準」で、人はお互いを裁いたり責めたりしている。

歴史を振り返れば、さらに鮮明に判断できる。

戦国時代なら武将を討ち取れば英雄と称えられた。

言い方を変えれば、状況によって殺人がよしとされていた時代だった。

しかし現代の日本で同じことをすれば、大罪として厳しく裁かれる。

正義は時代によって大きく変化する、実に不安定な概念なものだ。

基準が揺らぐのは、人間が感情をもつ生き物だからでもある。

誰かにとっての正義が、別の誰かにとっての暴力になる。

時代が流れた現代においても、この構図が繰り返されてきた。

自然は善悪を問わない

自然の摂理には人間のような迷いがない。

太陽は昇り、雨は降り、四季は巡り、生命は誕生しては、やがて死んでいく。

ここには善も悪も存在しない。

食物連鎖で弱者が捕食されるのも、嵐で木が倒れるのも、すべてはただの自然現象。

痛みや苦しみを感じる側から見れば、とても理不尽だが自然そのものは評価を下していない。

この「評価を下さない」という点が、人間社会との決定的な違い。

自然の動きは本質的に原理原則に基づき、誰かに忖度など持つことはない。

普遍的な真理が身近に存在している。

善悪を超えた視点が生きづらさから開放する

人間はどうしても善悪の枠組みとらわれ、自分や他人を縛ってしまう。

「やってはいけない」と教わったことを破ると罪悪感が生まれ、「正しい」と言われる行為を守ると安心できる。

例えば

「親の言うことは絶対に正しい」と思い込むと、自分の進みたい道を外してしまったり、進みたい道を諦めてしまうことが往々にしてある。

親の価値観も、親が生きていく中で作り上げた親の「善悪の基準」に過ぎない。

大人になって自立したなら、もう親の価値観で生きていかなくていい。自分の価値観を育む番だ。

基本的に、親はあなたより先に人生を終える。

親を亡くした先はあなたは自分で歩いて生きていくのだから。

自然の摂理を軸にすると、見えてくるものが変わる。

生きのは生まれ、寿命を全うして、朽ち果てて自然に還る。

ここに優劣も善悪もない。

ただ生命が流動しているだけ。

人間も例外ではない。

善悪の判断に振り回され過ぎると、本来の自然な生き方を見失うことになる。

「他人からどう見られているか」に縛られ続ける人生は、自然の大きな循環からすればほんの些細なことに過ぎない。

社会のルールと自然のルールのバランス

人間社会で生きる以上、ルールをすべて無視して勝手気ままのやりたい放題では混乱が起こる。

日本は法治国家であるから、日本で暮らす以上、法律は遵守しなければならない。

そして皆が法律を遵守する社会の枠組みがあるから、安心して生活できる側面もある。

本当の意味での自由は、社会のルールを理解したうえで、自然の摂理というもっと大きな視点を忘れないこと。

「善悪の基準は人間が作ったもの」という認識を持ちつつ、他人の価値観の枠に縛られるのを防止する

生き方にどう活かすか

たとえば職場で理不尽なルールに縛られている時、「これは人間が勝ってに決めたものに過ぎない」と気付くだけで精神的な余裕が生まれる。

例えば、職場の謎ルールを違反して、始末書の提出を求められた。
こんな処置に恐れおののく必要なんてなにもない。

適当にテンプレートを選び、日付だけ書き直して提出するか、そもそも論で謎ルールを厳しく取り締まる息苦しい会社を辞めて、さっさと転職するかだ。

家庭や人間関係でも同じことが言える。

常識や習慣に従わないと白い目で見られることがあるが、所詮は人がこしらえた善悪の基準で、普遍的な真理ではないとわかれば過度に恐れることはない。

さっさと自立して、その場を去るか、あなたは圧倒的な実力をつけて何も言わせなくするかだ。

まとめ

人間が作った善悪の基準は社会を回すために必要ではあるが、絶対的なものではない。

唯一の真理と勘違いすれば苦しむことになる。

正義や善は時代によって常に揺れ動いている。

無駄な罪悪感に縛られてビクビク、オドオドしていては生きづらくなる。

始末書でも反省文でも謝罪文でも、どんと来い。

自然の摂理がすべてのルールであり、変わることのない本質を映している。

善悪をめぐる小さな枠の中の争いから距離をとり、自分らしく生きる場所へ移っていくこと。

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