「人はみんな自分が正しいと思って生きている」ものです。
一見すると当たり前のようですが、実はこの真理に気づいている人は少ないのもかもしれません。
どんなに平々凡々な人でも、どんなに理屈の通らない人でも「自分は正しい」と信じて行動しているものです。
たとえその行動の結果が、他人にとって迷惑だったとしても、本人の中では“正義”であり、筋が通っているということになります。
これは極端な話をすれば、犯罪者でさえ同じことがいえます。不正や犯罪行為を行う際、多くの場合で本人は「正当化」と呼ばれる思考プロセスを通じて、自分の行動に理由をつけ、罪悪感を軽減しようとします。
「自分にはこんな大変な事情があった」
「会社のために仕方なくやった」
「良かれと思ってこうするしかなかった」
そうやって自分の行動に「意味」や「正当性」を持たせようとする。
そうでもしなければ、犯罪を犯した人は自分を保っていられないもかもしれません。

共感されないのが“普通”という視点
私たちは、伝える相手についつい「わかってほしい」「共感してほしい」と思ってしまいます。
現実には、こちらの思いがそのまま相手に届くことの方が、はるかに少なく
むしろ、共感されないほうが「当たり前」なのです。
なぜなら、相手にも相手の「正しさ」があるからになります。
それぞれの人が全く違う過去を持ち、
全く違う育ち方をして、全く違うそれぞれの「常識」を生きてきた。
そんな相手に、自分の価値観や考えを100%理解してもらおうとするのは、ある意味では無茶なことかもしれません。
だから共感してもらえないからと言って落ち込まなくても良いのです。
むしろ「共感されなくて当たり前」ぐらい肩の力を抜いていた方が、人間関係は上手くいくものです。

自分の「正しさ」は本当に正しいのか?
そもそも私たちが「これが正しい」と感じる基準や価値観は、環境や経験から大きな影響を受けています。
- 親や学校、地域社会で教えられた価値観
- メディアから受ける影響
- 過去の成功体験や失敗体験
これらが幾重にも積み重なって「自分にとっての正しさ」が形成されていきます。
つまり正しさとは人それぞれ違う可能性が高い。
物理学者のアインシュタインの名言に、こんな言葉があります。
「常識とは18歳までに身に着けた偏見のコレクションである」
(この言葉に出会ったときは、自分の中の「正しさ」の定義を見つめ直したものです)
当たり前のことですが、「自分がされて嫌なことは相手にもしてはいけない」という前提です。
誰かを「正そう」とするその行為もまた、自分の“偏見”を押し付けているだけなのかもしれない。
「もっとこうするべきだよ」
「君の考えは間違っている」
「いや、それは違うよ」
こういう言葉の裏には、往々にして「自分の正しさへの固執」が隠されています。
相手の合わない価値観を自分に強要されたら、誰でも苦しくなりますよね。
ならば、自分も同じことをしてはいけない。
そういうところから「本当の対話」は始まるのだと思います。

「理解されなくて当然」の姿勢が心を軽くする
誰かに話しを聞いてもらったとき、思ったようなリアクションが返ってこなかった。
一生懸命説明したのに、分かってもらえなかった。
こんなときは、つい「自分の言い方が悪かったのかな」とか「もうこの人とは話したくない」と感じてしまいます。
そこで思い出してください。
相手も自分と同じように「自分が正しい」と思って生きているということを。
自分とは違う人生の地図を持っているということを。
「わかってくれなくて当然」
「共感してくれたらラッキー」
これくらいの心構えがあると、無駄に落ち込んだり、相手を責めたりしなくなります。
そして何より、自分の心を守れるようになります。
話を聞いてくれただけも、心はすっきりしていることもありますよね。

正しさではなく「理解すようとする姿勢」が大事
人間関係がこじれるとき、多くの場合どちらかが「正しさを押し付けようとしたとき」です。
人と人は「正しさ」でつながるのではなく「理解しようとする姿勢」でつながっていく。
- なるほど、あなたはそう考えているんだね
- 自分とは違うけど、その視点もアリだわ
- そこまでの背景があるなら、そう思うのもわかるわ
こういう対話の土台があって、はじめて深い関係性が育っていきます。
そして相手を受け入れる余白ができたとき、自分自身もまた受け入れてもらえるものです。

まとめ
人は“かくあるべし”という固執した正しさを手離したときに人間関係は楽になっていきます。
それぞれ人は自分が正しいと思い込んで生きているものです。
だから会話で共感されないことは当たり前。
その前提に立てたとき、私たちはもっと自由に、さらに優しく生きられる。
相手に正しさを押し付けない。
共感されなくても気にしない。
それよりも自分の感覚を信じて、相手の感覚も尊重する。
その積み重ねが「寄り添いたい人と末永く一緒に生きる」ということの本質かもしれません。

コメント